Diary Letter

1996年生まれ。幼い頃から祖母の影響で自然に親しみ、絵を描き、本を読む。幼稚園から高校までサッカーを続け、大学からはワンダーフォーゲル部に所属。現在大学4年生。

『ブーツを履いて歩き出した男』

この、心の底から湧き上がってくる熱いものが消えないうちに、どうしても書き残しておきたいと思った。

後から振り返って初めて分かることもあるが、その真っ只中にいないとわからないこともきっとある。

大学4年生の今ぼくは、これからどうするのか選択を迫られている。就職をするのか、夢を追うのか。

社会人を経験してからでも遅くない、お金やスキルを身につけてからのほうがいい、必ずそう言われる。

しかし、あのスキルも必要、このスキルも必要、と挙げていったらきりがないのではないか。いつまでたっても出発することができないではないか。

とは言っても、やはり社会はそんなに甘くないのか。

そんなことを悶々と考えるこの頃だった。

たまたまインターネットの検索に引っかかったナショナルジオグラフィックのある連載を読み、こんな生き方を選んだ人がいるのだと、驚きとともにどこか親しみを感じた。

大竹英洋さん、写真家。大学卒業後、写真家を志し、就職をせずに、何のあてもなくアメリカのある写真家に弟子入りしようと旅に出たのだった。

この人に会いたい。会って話を聞きたい。

メッセージを送ったら、快く承諾してくれた。大竹さんに会う日が昨日だったのだ。

いつもは遅刻気味のぼくも、今回ばかりは早めに行った。というよりも、早めに行かないと気が落ち着かなかったのだ。

どんな人なのだろうか。うまく話せるだろうか。考えてもしようがないことが気になって、心臓はいつもより早く脈打った。

駅で待ち合わせだった。ぼくは行き交う人を眺め、改札を出てくる人の中に大竹さんの姿を探した。

不思議なことに、全くの初対面でも身なりや顔でなんとなくわかるものである。この人かな、と思って声をかけたらやはりそうだった。

少年のようにきらきらした瞳、そして肩肘張っていない物腰柔らかな姿勢、それが大竹さんの全てを物語っていた。

駅の近くにある、大竹さんの馴染みの喫茶店に連れて行ってもらった。店内を照らすランプのような暖かな光と、歳月を感じさせる梁と木のテーブル、静かに流れる音楽が印象的だった。

オーナーの女性の方がまた素敵な方で、このお店を知ることができただけでもよかった、と思えた。3人で、たわいもない話で盛り上がった。

「それで、えーと、今大学生なんだっけ?」

「あ、はい、今大学4年生です。すいません、自己紹介してませんでした。」

大竹さんも、オーナーの方も、なんだか昔から知り合いだったように勝手に感じていて、自己紹介のことなどすっかり忘れてしまっていたのだった。さっきの緊張はどこへやら。全く能天気なやつだ、と思わず自分で自分を笑ってしまった。

写真を撮り始めてから、それが認められ始めるまでの話。ひとり、またひとりと人の縁が広がっていき、仕事につながっていった話。なぜ写真だったのか、写真とは何か、という話…。ここでは書ききれないほどたくさんの話をしてくれた。

うまく質問ができないぼくに、ためになるかもしれない話を惜しみもなくしてくれた。気がつけばあっという間に3時間以上が経っていた。

写真家として世の中に認められるようになるまで、決して順風満帆と言えるような歩みではなかった。一度は諦めかけた。それでも見てくれている人は見てくれている。伝わる人にはきっと伝わる。だからそれを信じてやる。

大切なことは、技術的に上手いとかそういうことではなく、何を表現したいのか、何を伝えたいのか、そしてそれに向かう姿勢、生き方である。なぜならそれが自ずと写真にも文章にも滲み出てくるから、という。

「最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。」

ぼくはふと、星野道夫のこの一節を思い出していた。

写真集を何冊出したかとか、本を何冊出したかとか、そんなこと本当は大切なことではないのだ。どれだけ自分が真剣に向き合ったか、どれだけ自分の心に素直に生きたか、きっとその方が何十倍も何百倍も大切なのだ。

大竹さんは、23歳の時最初の旅で出会った冒険家ウィル・スティーガーの言葉が今でも胸に残っているという。

それは、ウィルの講演会でのことだった。ある子供が彼に質問したのだった。どうやったら冒険家になれますか、と。

ウィルはこう答えた。

「なに、シンプルなことだ。ブーツを履いて、歩き出せ!」

そして20年越しに、大竹さんが『そして、ぼくは旅に出た』をいう本の出版を知らせにウィルのもとを訪れた時に、ウィルは本にこう書いてくれたという。

「おめでとう、ブーツを履いて歩き出した男」

ぼくも、ブーツを履いて歩き出そうと思う。

 

 

そして、ぼくは旅に出た。: はじまりの森 ノースウッズ

そして、ぼくは旅に出た。: はじまりの森 ノースウッズ

 

 

『人生なんて無意味だ』

短い一生の中で、いつまでも心に残る本と出会うことができるのは、なんと幸せなことだろう。数え切れないほどの著者の中から、1人と出会うのだから。

ぼくがこの本に出会ったのは、中学1年生の時だった。

誕生日プレゼントに本を買ってあげるわよ、という祖母に本屋に連れて行ってもらったのだが、とくにお目当ての本があるわけでもなく本棚から本棚へあてもなく彷徨っていた時、ふと目に留まったのだった。

『人生なんて無意味だ』

ぼくの心を射止めるのには、このタイトルだけで十分だった。それにしても強烈なタイトルだと思う。頭から人生の意味を否定しにかかってくるのだから。

本の舞台は、デンマークの田舎町。主人公たちは、当時の僕と同じ中学1年生。

「意味のあるものなんて何もない。それはずっと前からわかってた。だから何をしたって無益だと、たった今、気がついた。」

こう言って、ピエールという男の子が突然学校を辞めてしまうところから、この物語は始まる。ピエールは学校に行かず、通学路にあるスモモの木の上に腰掛けて、毎日クラスメートに言葉を浴びせるのだった。

「みんなただのお芝居だよ。生きてる振りをしてるだけ。それをあくせくやってるだけさ。」

「意味のあるものなんか何もないって、どうして今すぐ認めないのさ。認めて無の世界を楽しめばいいじゃないか。」

クラスメートたちは、何かピエールに真実を言い当てられたような気がして、けれどもそれを否定しようとして、「意味」を「形」にしてピエールに見せようと決める。つまり意味があることをピエールに証明しようとする。

その方法は、みんなの大切なものを出し合って「意味の山」を築くことだった。古い人形やビートルズのカセットテープ、想い出の写真から始まり、髪の毛、処女、亡くなった弟、人差し指…、次第にエスカレートしていく“大切なもの”。

結末は、決して明るいものではない。著者は問いかけているのだ。人生に意味はあるのか、あるとすればそれはどこにあるのか、と。

きっと誰しも、人生のどこかのタイミングで、こうした問いにぶつかり、悩むのだろう。避けては通れない、そんな気がする。

ぼくの場合は、人よりも少しだけ早かったように思う。小学2年生の時、幼稚園時代から仲の良かった同級生のMが突然亡くなったのだった。

その知らせが入った時のこと、葬式の時のこと、今でも鮮明に覚えている。それだけショックだったのだろう。雨の中傘もささずに、ぼくは霊柩車を見送った。その時にぼくは、もうMと二度と会えないことを実感して、初めて泣いた。

なぜMが死ななくてはならないのか。なぜ他でもないMなのか。神様に聞いても、返事はなかった。

気が付くと、あれから13年が経っていた。

自らが死に直面した時、身近に死を経験した時、きっと人は自らの人生を振り返り、これからの人生を見つめ、真剣に生きる意味を問うのだろう。

ぼくもそうだった。

学校に入学し、やがて卒業し、会社に入社し、やがて定年退職し、老後を楽しみ…。人生とはそのように社会によって定められたレールを進むものではなく、いつ終わるのかわからない不確かなものであることに気付くのだろう。

何を成し遂げたかではなく、過ぎてしまったかけがえのない時間にこそ、人生の意味があることに気付くのだろう。

だからこそ、今この瞬間が輝くということ。自分の心に素直になるということ。それだけが意味のあることだということ…。

振り返ればMの死は、ぼくにたくさんの大切なことを教えてくれた。

亡くなった者は残された者に勇気を与えてくれる。大切なことはその声に耳を澄ますことができるかどうかなのかもしれない。Mは僕の心の中に生き続けている。

そしてピエールは今もぼくに問い続けている。

ぼくがピエールのクラスメートだったら、一緒に学校を飛び出し、スモモの木の上に腰掛け、青空を見上げて、笑い合いたい。人生とは、自由だね、素晴らしいね、と。

 

人生なんて無意味だ

人生なんて無意味だ